大学時代にうつ病を患ったまま、きちんとした治療を受けずに新卒で就職した某病院。就職を機に一人暮らしも始め、慣れない家事をこなしながら職場に通う毎日を過ごしていたが、正直その時の記憶があまりない。毎日ただ職場に通うことに必死であり、職場には馴染めず、休日も休みなく勉強に充てていた。
必死に仕事に取り組んでいたが周りからの評価は悪く、怒られはしないが嫌味のように仕事ぶりを指摘された。確かに仕事に集中できていなかったし、頭も回らないし、ただ毎日をこなすことしかできず、それは周りから見たら頑張っていないように見えただろう。そんな毎日を過ごす中で、自傷行為の頻度は増え泣きながら出勤するが、それを相談できる相手もいなければ自分でも自分がどんな状態なのかわかってはいなかった。
働き出して3ヶ月が経ったある日、仕事を休んだ。朝、出勤途中で体が動かなくなった。職場に行けなかった。多分体が限界を迎えたんだと思う。とりあえず今日一日だけ家でゆっくり休もうと職場に体調不良で休む旨を伝え、家に帰った。
家に帰り、床に崩れるように座り込むと私の頭の中は死に支配された。 「もうだめだ、もう死ぬしかないかもしれない」と考えだし、「よし、死のう」となるまでは早かった。そのまま、財布を握りしめコンビニに向かいあり金でお酒を買い込み、家に帰るとお酒で大量の薬を流し込んだ。
気づいたら病院でいろんな管に繋がれていた。私は死ねなかった。
数日、救急病院で入院した後、精神科に移り3ヶ月入院することになった。職場には母が連絡をとってくれていたのだが、就職して3ヶ月では休職できないと職場から言われ自主退職という名のクビになった。
そこから私の無職生活は始まった。
精神科病院を退院し、実家に戻った私はまず「働かなければ」と思った。無職なんてありえないと、そんな人間生きている意味がないと自分を奮い立たせアルバイトを始めた。しかし、長くは続かなかった。3ヶ月入院して退院したが、体調が万全になったから退院したわけではなく、入院できる上限が3ヶ月だったので退院せざるえなかったわけで、まだまだ働くには体力も精神も回復していなかった。
イタリア料理店のキッチン、野菜の選果場などなど働き始めてはすぐ辞めてを繰り返した。なかでもスーパーの品出しは1日で辞めた。
実家があるから生活できていたが、プライドの高い自分は親の脛を齧らないと生活できない自分を責めに責めた。両親にはすごく支えられ援助してもらっており感謝してもしきれないが、自殺するという最大の親不孝をせずにはいられなかった。
死にたくて死にたくてたまらない毎日。なぜ私は生きているのか、答えのない問いを薄暗い部屋の中で自問自答し続けた。そして耐えきれず、また私はお酒で大量の薬を流し込んだ。
そして、また入院。入院して一見元気にはなるが、根本的に死にたい気持ちが無くなるわけではなく、家に帰れば死ぬ方法を考える。ODでは死ねないと、次は飛び降りだと決め、某自殺の名所の崖から飛び降りることに決めた。だが、これは計画だけに終わり実行には移さなかったので私は死ななかった。
そんな自殺方法ばかり考えていたこの2年半に意味はあったのか?
この2年半の無職生活に多分意味を持たせることはできないだろう。反省しかない。迷惑しかかけてない。
だけれど、この経験が無ければ発信活動をしている自分はいなかったし、家族を大切にしようと思える自分にはなれなかった。
幼少期の虐待経験が鬱の根本にあり、母を恨んでいた。でも、この2年半で母と向き合う時間ができ、当時母には母の苦しみがあり今は反省しているということを知った。無職の間は何度も自殺未遂を繰り返す娘を見捨てず献身的に支えてくれた。
未だ死にたい気持ちが消え去ったわけではないが、家族を悲しませるわけにはいかないと私はこれからも生きていこうと決めた。そして、生きていくからには私の経験をもとに救える命があるんじゃないかと発信活動を始めた。まだまだ未熟だし、どんな活動をしていけば他の精神疾患の方たちの助けになるのか模索中。
この2年半後付けで意味を持たせることはできるだろう。でもそれは自殺未遂を繰り返したことで傷つけた家族に対して申し訳が立たない。いい思い出にはできない。
それでもこの2年半で感じ取った苦しみだったり、感謝だったりは今の自分の芯になる部分を構成していて、私の生きる指針になっている。
だから、意味はないかもしれないけれど、無駄な時間として忘れることはできないだろう。