自分の人生は自分の責任っていうけれど、他人からの影響デカすぎんか

人生は選択の連続である。その選択をするのは自分であり、であるからして人生の責任は自分にあるだろう。

しかし、その選択には他人からの影響めっちゃ受けてないか?と思うのですが、どうでしょう。

他人の顔色を窺う性格

私は他人の顔色を窺いすぎる性格をしている。誰かが不機嫌な表情をしていればそれを察し、気を配り、ときにはおだてへつらい機嫌をとる。こういった性格なもので、会議などで発言を求められる場面では皆の顔色を窺うせいで何を言っていいのかわからず結局発言できない。その結果仕事の評価は下がる。

誰かと話していてもこの言葉で大丈夫だったかな?など自己反省会が会話が終わった後に繰り広げられる。人と関わる労力が至極必要になり、日々疲れが溜まってしまう。

なぜこんな性格になったのか。

それは一つ小学生時代のいじめだろう。私が通った小学校は全校生徒が50人ほどしかおらず、同級生は11人だった。そんな少ない人数でいじめられたらもう孤独。助けてくれる人なんていないし、クラス全員が敵。

そうした学校生活だったが、なぜか小学6年生になった頃、いじめはなくなり、いじめっ子たちは私に好意的に接してくるようになった。理由はわからないが、いじめは無くなったので心穏やかになっ…たということもなく、またいついじめが再開するのだろうと毎日ヒヤヒヤしていた。

いじめっ子の機嫌を損なわないようにいじめっ子が欲しい言葉を言い、求められる行動をする。その結果、尋常でなく他人の顔色窺い人間が誕生した。

これは誰の責任ですか

大人になり顔色を窺いすぎるあまり評価の上がらない私。これって私の責任だけですか?

評価が上がらないのは少なからず小学生時代の影響はあるわけで、それを自己責任だけで片付けられるとモヤモヤする。

もちろん大人なので癖を治していく努力はしている。大人になった今の評価の責任を、いじっめ子たちに負わせたいわけじゃない。ここまでくるのにさまざまな選択をしてきたし、いじめだけが今の自分を作ったわけじゃない。顔色窺うというのも自分で選択していること。

でも、何がなんでも自己責任で語られると息苦しいのだ。

自分の人生の責任が自分にあることは間違いない。それでも全てを自分のせいにしていたら疲れるもん。誰かのせいにしたいときだってあるじゃないか。

人生の舵を握っているのは自分自身。でもときには大荒れの天気で船は転覆しそうになることもある。天気は自分では変えられないよね。そう思って気楽に生きていけたらいいよねって思いながら今日も私は生活する。

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